脳天を突き抜けるほどの衝撃的な「読書体験」の記憶。私の中で生まれつつある「新しい変化」【神野藍】
神野藍「 私 を ほ ど く 」 〜 AV女優「渡辺まお」回顧録 〜連載第28回
【脳天を突き抜けるほどの衝撃的な読書体験】
高校三年の冬、人よりも入試が早く終わり、何となく居心地が悪くなって図書室に居場所を求めるようになった。ここが私にとっての大きな転換点となる。ようやく中学生から始まっていた受験というものに区切りついたことが、少しずつ本との向き合い方が変化するきっかけとなったのだ。
受験で使う現代文は「書いてあることをそのまま受け取ること」が最重要事項で、余計な推測や解答者の感情は排除すべきと教えられてきた。使っていたぼろぼろの問題集には「余計なことを考えるな」とでかでかと注意書きを書いていたぐらいだ。きっと全員がそうではないだろうが、私はなるべく受験に最適化した状態でいたかったので、本を読むときも無意識に同じようにしていたのかもしれない。だからこそ、読む本は評論寄りの内容が多く、小説は何となく避けていた。これまでずっと本が心の底から面白いと感じなかったのは、本自体が問題なのではなく、面白く感じる読み方ができていなかったことが原因だろう。受験が終わった瞬間にそのような試験の点数を稼ぐための呪縛みたいなものから解放されたのだと思う。
ようやく小説を読み始めるかと思ったときに手をとったのが谷崎潤一郎の『痴人の愛』であった。手に取った理由は単純明快で、「日本史の問題集によく出てきたけど、どんな内容なんだろう」と思ったからだ。特にあらすじすら読まないままページを開いた。初めて読んだときに脳天を突き抜けるほどの衝撃を受けたことをはっきりと覚えている。「こんなに美しい日本語が世の中にあるなんて」と惚れ込んでしまったのだ。一生に一度の恋に落ちたような感覚だった。今でもあの胸のきらめきは忘れることができない。
この出会いから、本の世界に深くのめり込むようになった。もちろん、私は気の向くままに読んでいるので、「早稲田文学部ならば読んで当たり前」「本が好きなら知っている本」みたいな作品をいまだに読んでいないことが多い。太宰治の『人間失格』は途中で止まっているし、村上春樹にいたっては一冊も手を出したことがない。いい加減「読んでみないと」なんて思いつつ、何となく先延ばしにしているが、あまり焦ってはいない。何でもかんでも早めに読んでおくのが良いというわけじゃないだろうし、「読んでみたい」と機が熟したときに手を出すので十分だと思っている。